Prev

Next

パネルディスカッション

メンバー

  • Dr. Vijay Kumar
    (Director,Office of Educational Innovation and Technology,MIT)
  • 飯吉 透氏
    (BEAT客員教授/カーネギー財団 知識メディア研究所)
  • 山内祐平氏
    (BEAT併任准教授/東京大学)

司会

  • 中原 淳氏
    (BEATフェロー/東京大学)
パネルディスカッション「デジタル読解力を育てる情報教育」

※みなさまからの意見を司会がまとめ、パネリストに質問を投げかけるという形で進められました。

Q:オープンエデュケーションというのは、ボランティアでやるべきものなのでしょうか。
オープンエデュケーションを長続きさせるためには、推進者の燃えるような情熱だけではなく、ビジネスモデルが必要ではないでしょうか。
大学や民間企業は、どのようなかたちでビジネスモデルを構築することができるのでしょうか。

飯吉透 飯吉もちろん情熱だけではダメであり,アメリカを見ていても,情熱だけでは何も進んでいない。はっきり言えば,人間の「欲」というものが大事。欲と聞くと悪いイメージだが,向上欲とか,ある組織の中で(たとえば助教が准教授になり教授になるような)出世欲,その分野で学問的に認められたい欲とか,いろんなものがある。アメリカで顕著なのは,上位に上がりたいという欲求。たとえば教頭先生や校長先生とか,大学のアドミニストレータには非常に強い権限がある。
そういうものにうまくオープンエデュケーションをうまく噛み合わせていくことで,オープンエデュケーションを利用することによって自分の欲求が満たされていったり,上位にどんどんポジションをあげていく際,オープンエデュケーションをやることで大学が評価してくれるのだったら,どんどんやっていこうとなる。そこに,その先生の情熱が元々あればうまくのると思う。

また大学のアドミニストレーターだったら,オープンエデュケーションを展開させ成功させたら,それが自分の勲章になるわけで,アドミニストレーターとしての仕事ができると評価されることになる。その他の大学からリクルートされる。またそこでいい仕事をする。

そういった方向へ向かっていければ,誰もが様々な欲求が満たされてハッピーになれるし,また教育システムも良くなっていく、ということだと思う。

Q:オープンエデュケーションでコンテンツ提供者に対するインセンティブはあるのでしょうか。

Dr. Vijay Kumar最初の質問とこの質問は関連し合っているので一緒にお答えたい。
教授陣に対するインセンティブやコンテンツ提供者へのインセンティブは何か?ということだが,教員にすれば自分の講座の一切合切の中身を公開され,コンテンツも公にされることになる。教育者というのは,やはりものを教えたい,家を建てたいというよりも,人にものを教えたいから教育の世界に入ってきたのであるから,学習者が増えれば増えてくれるほど教育者側にとっては嬉しいことである。
教育者は教えたいから教えている,その教えを請いたいと考えている学習者がたくさん居ること自体がインセンティブになってくれる。いろんな学習者に自分から直接働きかけられるということが,この上ないインセンティブになるということである。それが1番目のインセンティブである。
OCWについては,コンテンツ自体が公開されるということで世界中が注目してくれて,批評も加えてくれる。その批評をベースによい改善材料を得て,次の機会,さらによいコースを準備できるわけである。そして実際に,これは起こっているのである。これが2番目のインセンティブ。
そして3番目は,多くの人々が講座を知ってくれるということで,そのコンテンツ提供者自身の人気が増すということである。それもインセンティブになるかと思う。

飯吉まったく同感だ。
それから,山内先生から「広告的価値から教育的価値」というお話しがあったように,大学が「自分達の宣伝に使える」と考えて,コースを多く出せば出すほど逆に効果が薄れてしまうというのはその通りだと思うだが,不思議なことにOCWに入っている大学はすでにブランド力がある大学ばかりである。
本当にブランド力が必要な大学は入ってこない。奇妙な話で,「リッチ・ゲッツ・リッチャー」(富める者がますます富む)という言い方があるが,本来情熱があれば,規模はともかく,どんな大学でもできるはずだ。他の大学も、もう少し頑張って動きを見せて欲しいと思う。

Dr. Vijay Kumar Dr. Vijay Kumarさきほど「ボランティアなのか,それともプログラムとして運営できるのか」というものがあったが,個別の教材を公開するというところは,個人のボランティア精神で行なわれる。しかしながら,教育機関や国家レベルの話であれば,これはもうボランティアのレベルでは済まない。意図的に,ちゃんと熟慮した上で戦略を立てていかなくてはならいない。
機関として有意義に存続したいのであれば,また国家として教育問題にしっかりと対応したいのであれば,それなりの戦略が意図的に必要である。この意味において,もうボランティアレベルの話ではない。

「広報のために公開するんだ」という話もあった。コンテンツのコンソーシアムに入る大学が増えれば増えるほど公開される教材も増えるんだという話もあった。個々の大学としてコンテンツを出すからには,それに付随する価値が減ってはよくない。「我が校はここが売りですよ」という付加価値を万人に分かってもらうために宣伝するということも今後必要になってくると思う。
たとえば東大のコースはここが違う,ここが売りだと人に分かってもらうのである。そして受け取る側が自分のニーズに合った,たとえば自分の就職活動に必要であれば,それに一番ぴったり合った講座を選べばよいことである。どの講座を選ぶのかという選択権限は,消費者側にある。その人達にアピールできるよう,私の大学の良いところはここだと外部の人に語ることができなくてはならない。まさにこれがビジネスとしての価値,付加価値の源泉になるのではないかと思われる。

Dr. Vijay Kumar一つ確認していただきたいのは、MITではOCWをすでに公開しており、そして公開した後も、もっと洗練させるということをやっている。しかし、もともとの素材というのは、すでに行なわれている授業の中で組まれていたものであり、それを公開しているわけである。公開するためにゼロから作り上げるわけではない。すでにクラスでやっているものを再利用して公開しているわけである。
そしてMITの様な教育機関や学術研究機関の責任というのは、いろんな素材を集めてきて、それをうまくまとめて、本にするとか、マイクロフィルムにするとか、公開する等というものになる。そのようなコストをどこが負担をするのかという問題については、当初は財団等から資金的援助を受けるということもやっていた。
世の中に対してコンテンツ公開するということをやっているが、コンテンツを公開して一番最初に利を得るのはコンテンツを公開した機関自身である。誰よりもまず初めにコンテンツからいろんなものを得たり、活用できる構図になっているということである。
まさにその点において教育の付加価値が生まれているということだ。だからこそ持続可能なかたちで、こういうリソースの公開というものを続けることができているのだと考えている。

Q:オープンエデュケーションの目的を一言で言うと何でしょうか。なぜそれが為されるべきなのか。

司会公教育の代替としてオープンエデュケーションを捉えるのか,大学の宣伝なのか,あるいは社会基盤の構築なのか,多くの方々が悩んでおられるのだと思う。

Q:Is Todai ready for Open Knowledge?(東大にオープンナレッジの準備は整っていますか?)

山内東京大学を代表して答える立場ではないが,残念ながらNot ready.である。これはものすごく大変なことであると認識している。
ただ,Readyではないが,Partsは揃っている。KALSという教室によって実際の授業が出てきたので,そこで展開された教えと学びの知のようなものであるとか,そこで使った教材を何か公開することで教育価値が出せそうなところまで来ているものの,そこから本当に教育的価値を生み出すところまではまだ落差がある。

Q:OCWのように生の素材を提供することよりも,教材にしていくときには大学がコストを支払う量は非常に多くなる。なぜ大学が負担しなければならないのか。
オープンエデュケーションでつくられたコンテンツの著作権というのは誰に帰属すべきものなのでしょうか。

オープンエデュケーションが切り開く未来 飯吉クリエイティブコモンズというものがある。普通のコピーライトでは著作権者がすべての権利を持っているが,クリエイティブコモンズというのは必要に応じて様々な権利を細かく設定できるようになっている。たとえば教育的に使う場合には,自由にコピーしたりアップしてよく,著作権者にコンタクトしなくてよい,といったようにである。

クリエイティブコモンズが出てきた背景には,こういう(教育的な)ものを自由にどんどんアップしていくのに,現状の著作権コピーライトというものが非常に弊害になっているという現実がある。それならば新しいシステムを作ろうということであり,こうした分野では非常に大きな進展が見られる。
インターネットで誰でも簡単にアップしたり,ダウンしたりできる時代になっているので,良いものの普及に,このような新たな形で知的所有権を扱うシステムが加速的に貢献しているというわけです。

Q:OCWを使っている人々の「学習コミュニティ」というものもあるのでしょうか。

Dr. Vijay Kumarコミュニティというのはできている。MITはコンテンツを作成する側だが,特にMITが音頭をとることなく,ユーザー側で自主的に特定の科目とかテーマ別にコミュニティをつくっている。

一つ確認していただきたいのは,MITではOCWをすでに公開しており,そして公開した後も,もっと洗練させるということをやっている。しかし,もともとの素材というのは,すでに行なわれている授業の中で組まれていたものであり,それを公開しているわけである。公開するためにゼロから作り上げるわけではない。すでにクラスでやっているものを再利用して公開しているわけである。

そしてMITの様な教育機関や学術研究機関の責任というのは,いろんな素材を集めてきて,それをうまくまとめて,本にするとか,マイクロフィルムにするとか,公開する等というものになる。そのようなコストをどこが負担をするのかという問題については,当初は財団等から資金的援助を受けるということもやっていた。

世の中に対してコンテンツ公開するということをやっているが,コンテンツを公開して一番最初に利を得るのはコンテンツを公開した機関自身である。誰よりもまず初めにコンテンツからいろんなものを得たり,活用できる構図になっているということである。
まさにその点において教育の付加価値が生まれているということだ。だからこそ持続可能なかたちで,こういうリソースの公開というものを続けることができているのだと考えている。

Q:オープンエデュケーションでは、資金的リソースの確保が重要だと思います(たとえばコマーシャルを掲載するなど)。東大ではこれについてどのようにお考えですか。

山内祐平 山内本来,責任者は中原先生なのだけれども…

司会(中原)わたくし司会者です。

山内コマーシャル掲載について,実は検討したことがある。結局は,その選択肢を取らなかった。確かにCMを載せれば資金が得られる。しかし,UT-OCWが東京大学にとってどういう位置づけのものなのかを考えた場合,大学の知を公開する場として,それは大学の本来業務の一環であると考えられる。
本務でやっていることに,コマーシャルでお金を取らなければいけないということになると,それでちゃんと大学をやっているのかということになってしまう。コマーシャルの制限がどうのこうのというよりも,東京大学が大学として意思決定をした上で,大学の知を公開するということが東京大学の本務であるということを示すためにもCMを載せない方がいいだろうと判断したわけである。UT-OCWは,英語版も公開され,途上国からのアクセスもある。CM掲載は原理的に可能であるが,いまのところの運営状況から考えても載せなくて大丈夫だと思われる。

Q:全員が自分が得たいものを分かっているわけではない。オープンコンテンツというのは,自分の得たいものを分かっている人と分かっていない人の格差を広げるのではないか。
今日紹介されたテクノロジーは,比較的学力のある人がハイスピードな授業に対応していくためのテクノロジーではないか。底辺の人へのテクノロジーではないように感じた。

司会おそらくオープンエデュケーションは,格差問題解決のひとつのソリューションとして位置づけられることが多いと思われる。それに反して,格差を拡大してしまう可能性を持つのではないかというご意見だと思います。

飯吉大事な問題だと思う。ホテルには「コンシェルジェ」という人がいる。たとえば,どこのレストランに行けばいいのか?とか,こんなところへ行きたいのだが面白いものはあるか?とか。なんとなくわかっているが,実際にはどこへ行けばよいのか分からない人に,的確なガイドをしてくれる人である。
教育コンテンツの分野にも,こういう役割が絶対に必要になってくる。これだけいろんなものが何万点と出ている中で,どれを選べばいいのか実際には分からない。それを助けるサポートを誰かが提供しなければならない。
大学にできない,学校システムにできないとすれば,各国の政府が,自分たちの国民の教育機会を増やす名目で予算を確保し,そういうサポート・システムを作る条件整備をする必要がある。そうすれば学校教育の外側で教育をサポートしていく新しいシステムができるかも知れない。その様な柔軟な発想というのが大事だと思う。

Q:誰を対象としてコンテンツ化するのか,ということが不明なものが多いのではないか。だれが最大の享受者なのか。

司会オープンエデュケーションの評価について「これはどのような人に利用されているのでしょうか。学習効果について研究されたものはありますか。」

Dr. Vijay Kumar Dr. Vijay Kumarどういうインパクトを出しているのかということについては気をつけて考えなければならないが,誰がアクセスしているのかということについてはかなりの情報が揃っている。自習者であったり,教育者であったり,正規課程を受けている者だったりという情報は得ている。しかし,どの程度利用しており,特に何について利用しているのかという具体的なところの情報までは取るようにはなっていない。

インドを例に考えてみると,職業分野においてオープンエデュケーションを広く活用していきたいと思っているのであるが,この分野であれば,かなり評価しやすいと思われる。つまり資格を取った人で,企業に努められるような人がどのくらい増えたかが尺度になるかと思う。
いまのインドが持っている教育制度では,まだまだ十分な資質を持った人たちを企業側に提供するに至っていないのが現状である。

評価にはいろいろやり方があるかと思うが,このオープンエデュケーション運動というのは新しい動きであり,まだ始まって間もないということもあるので,現在提供されているコンテンツなり教材なりというものは,どうしても伝統的な在来の教育モデルがベースになっている。評価を加えるということになると伝統的な教育に対してどういうインパクトがあったのかという側面から評価することになるのだろうと思われる。

MITでも教育者及び学習者を対象として,教材がどのように使われているのかを追跡調査した。正確な数字はいま手元にないが,一ヶ月前に調査したデータによれば,学習者からは「たくさんあるのが非常によい」「いろいろ見比べて自分に適したものを選べるからよい」といった評価が返ってきている。
また「いまは必修科目のみをとりあえず取っているけれども,このOCWを見ながら,今後の科目選択における心の準備を付けたり,いろいろ将来のことを考えて判断できる」といったような評価が上がってきている。我々としても,どんな風に学生がOCWを活用しているのか,こういった調査を通じてみるようにしている。

Q:オープンエデュケーションのクオリティは誰が担保するのか。クオリティを守るのは誰なのか?

飯吉クオリティに関しては,提供者側と利用者側の両方にとってのクオリティを考えないといけない。まず提供者側からすると,広報的なメリットを考えてオープンコンテンツをやっていくときには,質の悪いものを出せば広告効果はなくなってしまう。各大学なり各コンテンツ提供者側は,自分で十分効果があると判断するか,みんなが「これはよい」と評価してもらえるところで線引きすることになる。
しかし厄介なのは,そうやって線引きされたものが本当に利用者にとって訳に立つのかという問題である。この点で,MITとカーネギーメロンが対比的なのは,MITは非常にハイクオリティ,一番高いレベルのクオリティを世界に提供することが自分達の役割とか使命であると考えており,一方,カーネギーメロンは,クオリティが低いわけではないけれども,非常に基本的なもので大勢の人に使ってもらえるようなものを出すようにしている。
利用者側にとっては,MITのような高いクオリティを求めている人たちには,MITのものが嬉しい。だけれども,実際使い切れない人たちにとっては,カーネギーメロンのようなクオリティの方が嬉しいといった場合がある。

Dr. Vijay Kumar Dr. Vijay Kumarよい質問であるし,しかも手強い質問だ。
オンラインベースであれ,Webベースであれ,いろんなコンテンツが出ているが,その質について評価するには2,3の方法があると思う。
まず,どれくらいの頻度でWebサイトに人々が足を運ぶのかを見るやり方である。やはり人が集まらないWebサイトというのは自ずから質が悪いのだろうと判断されるのだと思う。

第二の点は,飯吉先生が述べられたように,各機関などの提供者側が気をつけて質の高いものを出していく必要があるということ。であるから,医学情報でも工学情報でも分野毎に,たとえば「あなたが見たコンテンツの中でいちばん良いものを出している機関のトップテンをあげてください」という調査をすれば,自ずからよい評価の機関というものが出てくるのではないだろうか。

3番目の方法として,これはMERLOTがやっていることなのだが,出版会社がやっていることと同じく,論説委員会のようなものをつくることも一つの手だと思う。化学なら化学の中で非常に一流といわれる先生達を集め,その人達にどういう制作者が良いコンテンツを出しているのか評価してもらう。というのも一つの手になるのではないだろうか。

飯吉先生も興味深いコメントをしていたように思う。品質には絶対的基準があるわけではない。それを受け取る側にとって,質の高いものは高い。Aという人にとって質の高いものが,Bという人にとっては質は高くない,という風に判断されるようなものなのである。

さらにリミックスというのが今回いろいろ話に出たと思うが,リミックスする本人というのは,ユーザー側自身というわけであるから,製作されたコンテンツの質というよりは,そのコンテンツを集めて自分でリミックスした結果の品質が問題となり,それはリミックスした消費者本人の責任になるとも考えられる。

飯吉一言付け加えさせていただければ,満足度だと思う。クオリティという言葉ではなく,満足度だと思うのである。たとえば,ミシュランの三つ星フレンチを出されても,今日はフレンチを食べる気分ではないと満足度はとても低いわけだ。ラーメンが食べたいときにそんなもの出されても困る。

それは同じ一人の人でも,気分によって,そのときの必要度によって,同じものを見ても満足度は変わってくるということだ。そういうことも考えないといけない。絶対的なクオリティというものはない。

Dr. Vijay Kumar飯吉先生はきっとお腹が空いているのではないかと思う。出される例が全部食事の話しばかり…。

司会最後にオープンエデュケーションの可能性についてでも,雑感でも結構です,一言ずつお願いします。

山内評価の話であるが,UT-OCWと東大ポッドキャストで全く違うところがある。Podcastは(ユーザー評価の)星が付けられるようになっている。そうすると,有名な教授の授業でも星の付かないことが起こる。面白い授業には星が付くが,面白くない授業には星が付かない。
OCWを出すときには,わりと目利きのエディトリアルが基本的には高い水準のものを出すということになるが,必ずしも学習者がそれと同じ判断をする必要はなく,人によってはこの授業が面白いと思うこともあるし,面白くないと思う人がいてもまったく構わない。
東大ポッドキャストは,知らないうちにとんでもない壁を越えてしまったのではないかと思っている。たとえば,小柴先生とか総長の授業に星が自由に付けられるというのは,日本の大学の授業始まって以来のことが起こっているのではないか。そういう意味で,まだ始まったばかりだが,今まで大学の中に完全に綴じてしまっていた教育のシステムが,社会の中で再構成されるプロセスの一ステップが「オープンエデュケーション」なのではないかと思っている。おそらく今からやれることはたくさんあり,やれることを順番にやっていくことになると思う。

飯吉「オープンエデュケーション」というのは,哲学とか思想ではなく,テクノロジーがあって初めて可能になることとして我々は考えている。
いま,オープンエデュケーションというのは流行であり,ムーブメントなのである。ニーズがあってやっているというわけではなく,善意と広報的なメリットによって始められ進められている。
ただ,世界中どこにでも教育のニーズや問題は山積している。たとえば,富国教育政策みたいなものが必要であるとか,グローバルに競争的になった世界の中で,自分の国の教育レベルを上げ生産性を上げたいということもあるだろう。ユネスコのようなところが発展途上国にもっと教育を普及させたいということもあり得る。そういうものに対して,オープンエデュケーションが何かしら応えられる可能性があるので,それをどう結びつけてやるかが大事だと思う。

最後に言いたいのは,おそらく一番大事な点だが,「学校教育という形で今までやってきた教育システムが,今日のグローバルで情報化が進んだ社会に対応できなくなってきている」ということ。そのことがハッキリしてきている。学校以外の社会の中における教育機会というものをみんなで考えていかなくてはならない。
これも皮肉な話だが,現在のオープンエデュケーションというものは全部「学校」がやっている。もちろん学校も進化しているし,学校の教育がそれによって変わる余地もあるけれども,実は「そこから出発したものが、学校外の教育システムを作る原動力になってく可能性がある」わけで,その火を絶やしてはいけない。

Dr. Vijay Kumar「オープンエデュケーション」という言葉自体は,いままでも色々な形であったが,ようやくここにきて手応えのある運動になってきたといえる。ネットワークをベースとして教育を行ない,そしてモデルをつくり,接続性を確保し,技術にリソースを結集することができたので,やっと真の意味でのオープンエデュケーション,つまり本物になってきたのだと思う。
しかし,とどのつまりは,政策だと思う。機関としての方針,また公共政策ということをちゃんと考えていかなくてはならない。今の状況をどうやってうまく使ったら,人々の現在及び未来のための教育になるかということを考えなければならないということである。

飯吉先生はよい例をあげたと思う。オープンエデュケーションというものが本物になってきたので,教育というビジネス全体がまさにひっくりかえるような大きなインパクトを持ち得るということだと思う。つまり,従前であれば教育というのは有限的なリソースによって提供されて,この有限のリソースに多くの人がむらがっていたわけである。それがいまや様変わりして無限の形でリソースがある。今後どうやってそれにうまくアクセスするかということが問題になってくるということだ。

これは,教育についての先入観が全くひっくり返るという状況になってきたということだ。教育者と学習者との間の境も怪しくなってきたわけであるし,いままで重要だと思われていたものが突然捨てられるようなこともある。それゆえに機関や国家はこれについて考える必要があって,学術的,社会的,経済的なニーズがそこにある以上,それを避けて通ることはできないのである。

中原淳 司会「Oの時代」初期に始まったOCWが岐路にきているのだと感じられた。つまり,つぎに何をやるかというところに来ている。
もう一つは,人のサバイバルと密接に関わり合っていると感じた。フロアからは「これかコンテンツで食べていけなくなるのでしょうか。」「これから大学で生きていけなくなるのでしょうか。」「一流の教師がオープンエデュケーションに出されると,一流でない教師はどうなるのでしょうか。」というコメントからも垣間見える。

もう一つは,形而上学的問い。「大学とは何か」「誰が賢くなるべき人間か」「誰が知識を教授されるべき人間なのだろうか」「あるいは,大学の教師とは誰か」という深い問いと密接に絡み合ってしまっている。つまり「オープンエデュケーション」には,深い問いを逆照射する機能があるのだなと思われる。 それに対する答えをここで述べることができればノーベル教育賞でも取れるかも知れないが…。

こうしたもの凄い変革が起こったとき,まず一つにはアレルギーが起こると考えられる。たとえば,今日紹介されたものをどれだけの人が体験したことがあるだろうか。まず体験してみることが大事かと思われる。

もう一つは深い問いと絡んで大事なことは,我々が「どういった社会基盤を望むのか」ということと非常に密接に絡み合っていることである。こういうものは問いを立てるのが難しく,経済的政治的な議論だとか,教育的価に関する議論,その他いろんな方向からたくさん議論しなければならないと感じた。

それでは,登壇者に向けた拍手で終わりにしたい。ありがとうございました。

オープンエデュケーションが切り開く未来
テーマ

オープンエデュケーションが切り開く未来
—Education 2.0:OCWの次にくるもの—

インターネットとマルチメディアテクノロジーの普及によって、教育テクノロジーや教材の公開が推進されています。しかし、これらの教育資産のオープン化が、 グローバルな「教育的な知識や経験の共有と蓄積」やローカルな「教えと学びの質的な改善やイノベーション」に真に寄与するためには、「私たち一人一人が、自由に教え合い、学び合うことを支援する新たな知的環境」の構築が不可欠です。
今回のBEAT Seminarでは、世界的な広がりをみせるオープンエデュケーション・ムーブメントを様々な視点から検証し.「テクノロジーが教育の文化やシステムの変革をどのように促進できるか」という可能性を探ります。

日時
2007年8月25日(土)
午後2時より午後5時まで
場所
東京大学 本郷キャンパス
理学部1号館内 小柴ホール
内容
1. 趣旨説明 14:00−14:10
BEATフェロー 中原 淳

2. 講演 14:10-16:10(休憩適宜含む)
●教育におけるオープン・イノベーション:大学改革からナショナル・インターナショナルな教育開発まで
Dr. Vijay Kumar(Director, Office of Educational Innovation and Technology, MIT)

●開化する教育・進化する教育・深化する教育
飯吉 透(BEAT客員教授/カーネギー財団 知識メディア研究所)

●日本の教育システムにおける諸課題とオープンエデュケーションが提起するもの
山内祐平(BEAT併任准教授/東京大学)

3. フロアディスカッション 16:10-16:30

4. パネルディスカッション 16:30-17:00
「Education 2.0:オープン参加型の学習社会の実現を目指して」
司会:中原 淳
パネラー:飯吉 透・Vijay Kumar・山内 祐平
定員
定員170名
参加費
無料

Prev

Next

PAGE TOP